しばらく物思いに耽りながら歩いているとかなり心も落ち着いてきた。
振り返って考えてみると、やはり今朝の自分はどうかしていた。
夢というのは不思議なもので、どれだけ内容が生々しくても時間が経てば薄らいでいくもの。
ほんの数十分歩いただけでアリアはもう夢の大部分を忘れていた。
そうして人はまた日常に戻っていくものなのだ。
アリアは大きく伸びをし、深い深呼吸をする。
遊惰というのは人を堕落させていく。
きっと暇を持て余していたせいであんな夢を見てしまったのだ。
何か面白い事でも始めてみようかしらとアリアは思う。
習い事をしてみるのもいいし、久しぶりに海外に出掛けてもいい。
普段は出ない会社の総会や役員会に顔を出して、無理難題をふっかけあたふたする様を見るのも面白いかもしれない。
実際にやりはしないであろう妄想に近い悪戯をアレコレと考えている内にアリアの機嫌はどんどん直っていった。
そんなアリアの元に、爽やかな風に乗って甘く香ばしい香りが運ばれる。
「あら、いい匂い......」
胸を躍らせるようなこの香りは、一嗅ぎでスイーツのものだと分かる。
首を回し辺りを見渡してみると、ちょうど料理人専用の厨房のすぐ傍を通り通り掛かっていた。
「あそこから、よね?」
それにしても良い香りだ。
恐らく佐野山がアリアの為にデザートでも用意してくれているのだろう。
相変わらず気の利く男だと関心した。
こちらの気持ちを先読みしたかのようなその行動にはいつも驚かされる。
幾分歩いたおかげでちょうど小腹も空いていたのだ。
「まぁ、お腹がいっぱいでもデザートは別腹だけど」
独りそうごちると、ちょっと覗いてみようかしらとアリアは厨房の方へと足を向けた。
「佐野山ぁ?何を作ってるの?」
厨房に入るなり、アリアはそこに居るであろう男に向かって声を掛ける。
料理人達は皆、休暇を取っていて食事の用意は全て佐野山が担っている筈だからだ。
しかし、だだっ広い厨房の中には人っ子一人おらず、アリアが期待したような返事は返ってこなかった。
「佐野山?居ないの?」
キョロキョロと辺りを見回して佐野山の姿を探してみるが何処にも見当たらない。
「用足しにでも行ってるのかしら......?」
調理台の上にはいくつかの器具が並んでおり、何かが作られている最中である事は間違いなかった。
そして、依然として甘く香ばしい匂いは強く辺りを漂っている。
女子であるならば、その匂いの元を突き止めたくなっても仕方のない事だろう。
胸の中いっぱいに吸い込めば吸い込む程、幸福感に包まれ頭の中が蕩けていくのが分かった。
居ても立ってもいられなくなったアリアは匂いの元を辿る様にふらふらと厨房を彷徨う。
やがて、テーブルの上に置かれた一つの皿に目が留まった。
皿の上には幾層も積み重ねたパイ生地の上に粉糖をまぶした美味しそうなミルフィーユがちょこんと乗っていた。
ゴクリ......
その味を想像しただけで生唾を飲み込んでしまった。
まだ作りかけだからなのか試作品だからなのか分からないが、ミルフィーユは綺麗に六等分されており最後の仕上げに使うであろう苺がその傍に置いてあった。
だが苺など乗っていなくても、
(美味しそうね......)
十分に食欲をそそる見た目と香りだった。
少しはしたないなとは思いながらも、フォークが見当たらなかったので素手で六等分された内の一つを掴んだ。
「味見よ、味見......」
そう自分に言い聞かせながらミルフィーユの一欠片を口元に運ぶ。
口に入れた瞬間に広がる砂糖の甘みとバターの香り。
丁寧に重ねられたパイ生地を一噛みするとサクリとした軽やかな食感と共に上品な生クリームとカスタードの甘みが舌先に広がった。
クリームの中に少量のマカデミアンナッツも混ざっていたのだろうか、サクサクとした食感の中にしっとりした歯応えとナッツの風味が加わり、それが絶妙なアクセントになっている。
生地にもクリームにもそれなりの手間と時間を掛けているのだろう、短時間では作り出せない奥深い味わいとなっていた。
「おいひぃぃぃ......」
頬に手を添え、舌鼓を打つアリア。
目尻は垂れ下がり、口元もそこはかとなく緩む。
口の中いっぱいに広がる甘い香り。
しかし、その甘さはいつまでも舌に残らずフッと儚くも消えていく。
くどくならないよう絶妙に調節された味加減だった。
(あぁ、どうして甘い物ってこんなに幸せな気持ちになれるのかしら......)
たまらない幸福感に身も心も包まれていくアリア。
佐野山の料理の腕前はプロのパティシエにもヒケを取らないものだった。
さすがは完全無欠のスーパー執事。
よくぞ我が家に仕えてくれたと誉めてやってもいい。
「あと一つ、あと一つだけ......」
それがスイーツの甘い罠だと分かっていてもついつい手が伸びてしまう。
頭よりも先に動いてしまう体。
それがスイーツを目の前にした女子というもの。
そうだ、これは仕方のない事だ。
悪いのはこんな所に美味し過ぎるミルフィーユがあるせいだ。
(私は悪くない、私は悪くない、私は悪くない......)
誰にともなく言い訳をするアリア。
いざミルフィーユに手が届かんとしたその時だった。
「——お嬢様、何をなさっているのですか?」
「はうっ——!?」
背後から突然声を掛けられ、アリアは伸ばしていた手を咄嗟に引っ込めた。
しかし驚いた拍子に口の中にまだ残っていたパイ生地を喉に詰まらせてしまった。
「——ケホッ!——ケホッ!ちょっ!居たの佐野山っ!?」
「はい。所用で少しこの場を離れておりましたが今戻って参りました。......してお嬢様、一体何をなさっていたのですか?」
主人の質問に先に答えた佐野山はニコニコ笑いながら同じ質問をもう一度繰り返した。
「うっ......それは......」
「な・に・を、していたのですか?」
顔はにこやかなままだが、その口調は詰問口調へと変わっていた。
つまみ食いなどという酷く子供染みた真似をしている所を見られてしまったアリアはバツが悪くなり、
「べ、別にっ!散歩よ散歩!」
あさっての方角を見ながら適当に誤摩化した。
「厨房をですか?」
「実に妙な所を散歩なされるんですね」と呟きながら首を傾げアリアを見詰める。
その身体を上から下まで見ていた佐野山の視線がある一点、指の所でピタリと止まった。
その指にはミルフィーユを掴んだ時に付着した白い粉砂糖がしっかりと残っていた。
「......お嬢様、もしやつまみ食いなんぞしておられましたか?」
佐野山の視線を追ってそれに気付いたアリアは慌てて両手を背中に回して隠すが時既に遅し。
ジトリと怪しむような目付きで佐野山はアリアに詰め寄った。
「し、してないっ!つまみ食いなんかしてない!」
「ほっぺたにパイ生地が付いておりますが?」
今度は自分の頬に慌てて手を伸ばしパタパタとはたき始めるがしかし、指先には特に何の感触もなかった。
「何も付いてないじゃないっ!?噓つき!!」
「やはり作りかけのお菓子を食べておられましたね......?」
「うっ——!」
言い訳の出来ない状況に追い込まれたアリアはまたしても喉を詰まらせ、ガックリとうなだれた。
「やれやれ、どっちが噓つきやら......しかしお嬢様ともあろうお方が、つまみ食いなど品性の欠片も御座いませんね」
佐野山は溜め息を吐きながら情けないとばかりに首を横に振る。
「つまみ食いくらい別にいいじゃないっ!」
「......やれやれ、今度は開き直りですか?普通の人間ならどうという事はありませんが、お嬢様は宝生家の人間です。それなりの礼節というものをわきまえてもらわないと......公共の場でそんな所を見られでもしたら宝生の名に泥を塗る事になりますよ?」
「私、そういう面倒くさいの嫌い。外ではちゃんとやるわよっ」
「そういう人程、表向きでやらかすものです。人は日常の生活が内面から滲み出て形成されるものですから。どうやらお嬢様には宝生家の人間として品格が欠けているようだ。これはお仕置きが必要ですね」
「お、お仕置きってっ!?使用人のあんたが私に仕置きをするとでも言うの!?」
「ええ、勿論で御座います。主の悪癖を正すのも執事の仕事ですから」
そこまで言って佐野山はアリアに詰め寄ろうと足を一歩前に出した。
佐野山の不気味な物言いにおののいたアリアは、後退するように一歩後ずさる。
いや、後ずさったと思ったのはアリアだけで、実際には上手く足を動かせずその場にもつれていた。
途端にバランスを崩し、体が後ろ向きに倒れていく。
それは何の事はない躓き、もう片方の足を出せばいいというだけの話。
ただそれだけの筈なのにもう一方の足も固まったようにその場から動いてくれない。
アリアは何故か、体を上手く動かす事が出来なくなっていた。
心臓が飛び上がり、倒れまいと何かを捕もうとするがその手はむなしく空を切った。
——倒れる!
そう思った瞬間、アリアは体が宙にフワリと浮く感覚を覚えた。
驚いて正面を見てみれば佐野山が倒れそうになったアリアに瞬時に反応し、腰の所から腕で支えているではないか。
咄嗟の事だったにも係らず佐野山の顔は至って冷静そのもので、慌てふためいた自分が恥ずかしくなって思わずアリアは目を逸らしてしまった。
「今度はおてんばですか?勘弁して下さい」
「違っ、今のはなんかっ......」
「お仕置きから逃げようとしても無駄ですよ?」
「違う!そうじゃなくて本当にっ!」
アリアの言う事は正しく、不思議な事に体が重い鎧でも取り付けられたかのように思う様に動かせない。
動けないのをいい事に、佐野山は固まったアリアをそのまま抱きかかえると、近くの料理台の上にそっと横たわらせた。
そして、
「では、お嬢様。お仕置きの時間です」
そう言って口の端を小さく吊り上げた。
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